第二次世界大戦期の白系ロシア人の動向
−内務省警保局刊行物を資料として−
はじめに
戦時下の日本に「外国人」として暮らすということは、単なる差別や偏見だけでなく、直接的な身体拘束を含め、日本人とは次元の異なる苦悩に曝されたであろうことは想像に難くない。第二次世界大戦期、日本政府は戦争遂行のため、様々な形で外国人を拘束した。程度に差はあっても、外国人が総じて抑圧的な生活を余儀なくされていたのは周知のとおりである。1939年には、外国人の居住や移動に関する自由を制限する法令として内務省令「外国人の入国、滞在及び退去に関する件」が既に施行され、次いで太平洋戦争勃発後の1941年12月9日には「外国人の旅行等に関する臨時措置例」が公布され即日施行となった(1)。
本稿のテーマは無国籍状態の白系ロシア人(2)がこの戦時下、どのような扱いをうけ、どのような生活を送ったのかを少しでも明らかにすることにある。この課題解明のためには、同時期を過ごした方々からの聞き取り調査が有効であることはもちろんだが、戦後60年を経た今となっては困難も多く、また戦時下という特殊環境であっただけに、当時の民間資料発掘も容易ではない(3)。
このような折、外国人を取り締まった側である内務省警保局の刊行物『外事月報』(4)が復刻された。そして、この刊行物が記録性の高い資料として研究に活用できることを、筆者は幸運にも、復刻版の功労者でこの分野の研究の第一人者である荻野富士夫氏から直接ご教示を得ることができた。『外事月報』は、その数年前に復刻された『外事警察概況』(5)と併せて、外国人の防諜活動に焦点をあてた当時の外事警察の資料であるが、これらは在日白系ロシア人の研究に携わる筆者にとっても、非常に有益であった(6)。
むろん、「取り締まる側の資料」である以上、一定の資料批判が必要である。記述そのものに偏向もあろう。しかし、これらのマイナス面を差し引いても、これまで知られていない事実が明らかにされることに意義があると考え、内務省警保局刊行物から白系ロシア人に関与する事例をまとめ、ここにいくつかを紹介する次第である。
事例の紹介
具体的な事例を挙げるまえに、当時の在留白系ロシア人の概況について触れておく。
戦前・戦中の在日白系ロシア人総数は、最大時で約1300名。ほとんどが兵庫、神奈川、東京の3地域に集中していた。これらの地域に次いで、北海道、愛知、千葉、長崎、広島、青森、大阪、熊本と続くが、その数は前述の3地方に比較すると極めて少なく、地域別でのロシア人居住者数4位の北海道でも100名に満たない。(表1)なお、当時日本領であった南樺太にも150名ほどのロシア人が居住しており、ポーランド系を含めると200名ちかくに上ったことを付け加えておく。
これら白系ロシア人がどうやって生計を立てていたのかは外事警察が調査した職業別人口で知ることができる。太平洋戦争が開始される1941年には、最も多いのが洋服商の111名で、全体の1割を占めている。以下、商店員および会社員(59名)、雑貨商(29名)、金物商(26名)、呉服商(20名)と続く。ちなみにこの5年前の1936年と比較すると、洋服商は40名ほど減少し、化粧品、金物商なども半減している。また、貿易商は20名から2名への激減となっている。詳しくは後述するが、統制経済によるロシア人社会への直接的打撃を示唆するものといえよう。(表2)
次に、白系ロシア人たちの政治的コミュニティを見てみると、その団体はおよそ20を数えるが、団体相互の連携は希薄で、二、三の例外を除いて、各々の団体自体の活動も低調傾向にあった。外事警察は「経済的不審が政治的関心を喪失させている」と報告している。(表3)
外事月報が創刊された1938(昭和13)年8月は、既に日中戦争が始まっており、国家総動員法が施行され、経済も戦時統制へと移行する最中である。日ソ関係はかなり険悪で、ソ満国境では何度か日ソの軍事行動がみられ、7月には張鼓峰で大規模な軍事衝突が勃発していた。また、これを溯る1月には女優岡田嘉子のソ連亡命事件も起っている。
(1) 為替管理法違反事件:1938(昭和13)年9月-10月
「為替管理法違反」の名目で多くのロシア人・ソ連人が検挙された。容疑は上海為替相場での日本円下落を利用した不当利益取得というものだったが、その背後には、これに併せてスパイ容疑の摘発という思惑もあった。結局、スパイ事実は立証されず、それぞれ罰金刑で終わったが、ロシア人・ソ連人はいつでもスパイとして摘発できるよう厳しく監視されていたことが推測される。(2) ソ連邦の日本人並びに白系露人工作:1939(昭和14)年1月
従来はサハリン島南北の国境を自由に往来していた少数民族の数名が、ソ連のスパイとして検挙された事件。外事警察の取り調べに対して、彼らはソ連当局から日本国内在住のロシア人名簿を作成するよう指令を受けていたと告白した(彼らは同年8月に軍機保護法及治安維持法違反で検事局に送致された(7)。この事件が明るみに出たことにより、日本国内の白系ロシア人に対する監視が強化された。特に、樺太の往来に対しては厳しい統制がとられた。同年6月の月報に記載されたフィリップ・シュウエツの動静報告はその一例である。彼は毛皮商としてたびたび樺太と北海道を往来していたため、外事警察に要注意人物として尾行されたのであった。なお、昭和16年12月太平洋戦争勃発以後、樺太への外国人の立ち入りは、内務省令により、外国人は樺太への出入りを厳しく制限されることになる(8)。
(3) 在留ソ連邦人の国籍離脱:1939(昭和14)年7月
また、次の事例も非常に興味深い。月報の記載をそのまま引用する。「従来本邦在留ソ連邦人にして国籍離脱を希望しソ連邦大使館に手続申請乃至意思表示をなせること屡々なるも、ソ連当局においては政策的にこれを阻止居たる模様あり。為に在留ソ連邦人は一方的に自由離脱の方法を講ぜんとせるも手続上の不備のためやむなくソ連籍のまま大使館への所手続を断ちて事実上の無国籍を標榜し居りたる実状なり」このとき、東京には民間人としては23世帯50名のソ連邦人がおり、このうち2名を除いては、皆一方的にソ連国籍を放棄していた。このようなおり、「外国人の入国、滞在及び退去に関する件」の施行に伴い、外国人には新たに滞在許可証が発給し直されることになった。そこで、手続不備による無国籍を標榜していたイリマーフは、日本当局からの今後の取締強化を憂慮し、この際、正式にソ連国籍を離脱しようと、ソ連大使館に交渉したところ、実に容易にソ連国籍失効の証明書を受給したというのが報告の内容である。外事警察はこれに関して、ソ連側がかくも簡単に国籍離脱を認証したのは、今後彼らを懐柔、利用する意図によるかもしれぬとして、関係者の動向に注意する必要性を指摘している。
同じ月報に、もう一つの国籍離脱の事例が報告されているが、それは神戸の元ソ連極東銀行支配人ポネヴェヂスキー一家がハルビンの白系露人事務局に依頼して離脱を実現したものである。
ハルビンで無国籍旧露国人の承認を得、身分証明を下付されると、事務局は満州帝国官憲に旅券の発給を斡旋し、この証明書の保持者には満州国は無条件に旅券を発給することになっている、という記述がある。証明書受給の条件は3ヶ月以上のハルビン居住だったが、これを満たさない場合も仮身分証明書が受給されたという。無国籍人になると、事務局機関紙「ザリヤ」に広告が出されることになっていた。ポネヴェヂスキー以下51名のソ連人無国籍旧露人に変更したとの告示は1939(康徳6)年6月14日付けの新聞に掲載されたという。外事警察はこの件について、ポネヴェヂスキーから詳細な聞取りを行い、例えば、白系露人事務局の登録者規定などを報告した。
この当時、日本ではソ連国籍よりも無国籍の方が暮らし易いというのが彼らの本音であったらしく、ポネヴェヂスキーはソ連国籍放棄の理由を「共産主義に共鳴したのではなく単に商売上の都合によりソ連国籍を取得したもので、今後日本に永住し日満の貿易に従事するには、むしろソ連国籍は不利益である」と述べている。
なお、ここに登場するソ連国籍の民間人とは、1925(大正14)年の日ソ基本条約締結後、東京にソ連大使館が開設された際に、申請によりソ連国籍を取得した旧白系ロシア人と思われるが、その確認は今後の課題である。当時の日本では、政治思想上の理由ではなく、より現実的な必要からソ連国籍を選択した白系ロシア人が少なくなかった。それゆえ、外事警察は白系ロシア人を時と場合により容易にスパイになり得る存在と危険視していたのであろう。
(4)白系露人の既成洋服小売商業組合結成:1940(昭和15)年10月-11月
外事月報の発行が中断された昭和15年は、「外事警察概況」(9)から事例を拾ってみよう。10月13日、東京既成洋服小売商業組合への加入をめぐり、ロシア人洋服業者67名が集結した。これは、統制により洋服は指定団体にのみ配給され、小売されることになったため、ロシア人業者で組合を結成し、指定団体である東京既成洋服小売商業組合に加入すべきか否かを検討したものであった。議決により注文洋服業者はロシア人のみによる組合は結成せず、既成洋服業者だけが単一組合の結成することになった。11月12日に組合結成大会が開催され、組合長にマスロフ、理事にアファナシェフ、パランノフ、ジュラヴリョフ等が選出された。
(5) 対米英開戦前後の動揺:1941(昭和16)年12月
昭和16年迎えると、4月にモスクワにおける日ソ中立条約の調印、6月に独ソ開戦、10月にゾルゲ、尾崎の逮捕、そして12月に米英との開戦と、歴史的事件が次々と生起する。これらに対する白系ロシア人の反応を「外事警察概況」から紹介する。日ソ中立条約に対しては、自分たちがソ連側からは圧迫を加えられることを懸念し、また、日本側からは自分たちがソ連への引き渡されることを危惧して、大いなる動揺が見られたことが報告されている。特に満州在留の白系ロシア人は、これまでの反共運動闘争の目標を失うと同時に不安定な立場に置かれた。尤も、ドイツ・ソ連開戦が報じられると、ソ連政権の崩壊、日本の対ソ参戦といった憶測がなされ、一時の動揺は払拭されたという。そして、対米英開戦を迎えると、ソ連は戦時特別措置下で友好国となり、白系ロシア人は第三国人としての扱いを受けることになった。
開戦にあたり、外事警察は「重大なる戦時任務を担い、いよいよ最大の昨日を発揮すべき時にあたり、不断の視察内偵と予て樹立せる計画に基づき着着と戦時措置の実施にあたる」と述べ、具体的には、外謀容疑者の一斉検挙、敵国人の抑留を行ない、「外国人の旅行等に関する臨時措置令」(12月9日内務省令)に基づく万全の防諜体制を敷いた。この内務省令は外国人の居住や移動に関する様々な規定を設けており、白系ロシア人もこの適用を受けることになった。指定地域への立ち入り禁止、居住所の届け出など、いくつかの条項が定められたが、戦局の深化につれ、区域外への外出禁止、退去命令へと、それらの条項は厳しくなっていく。
12月の外謀容疑者一斉検挙では全国126名、うち白系ロシア人は広島市で2名、長崎市で1名であった。敵国人拘留情況の項には計8名のロシア人の記載があるが、このうち広島県の6名は翌年1月に拘留を解除、自宅監視となった。残りの2名は拿捕されたオランダとギリシア籍船の乗務員で、翌年7月に神奈川県から警視庁に身柄を移送され拘束が続いた。
(6)白系ロシア人の経済的困窮:1942(昭和17)年5月、1943(昭和18)年2月、1944(昭和19)年3月
この時期、戦局拡大にともなうロシア人たちの経済活動の困難も目立ったものになってくる。17年5月の月報によると、神戸の白系露国人洋服商組合は配給指定団体である兵庫県洋服商業組合への加入に際して、同組合から相当の抵抗を受けた。配給の取分が減少するというのが主な理由である。 また、神奈川では20数名のロシア人が本業以外に映画のエキストラとして雇われていること、組合に属さない北海道の洋服商14名が商品の配給を得られなかったことなどが報告されている。ここで注目されるのは、外事警察では白系ロシア人が経済的困窮から諜報活動に利用される可能性を指摘していることである。また、18年2月の月報には神戸在住ロシア人の近況報告があり、従来の第三国との貿易停止、英米系商社の閉鎖により、スラブ系ロシア人が生活困苦に陥っていると伝えられている。知己縁故を辿り、上海、ハルビンなどを中心に移住する者も多く、16年、17年の2年間で121名が神戸から出国した。8月には、前述のハルビン白系露人事務局機関紙「ザリヤ」に掲載された「農業への商人転業の道」、「農業に対する白系露人の興味」という記事に触発された、マスロフ以下東京のロシア人たち数名が満州移住を希望している旨が報告された。マスロフは結局満州には移らなかったが、経済統制のため、営業困難に陥った洋服商たちが、満州に活路を見出そうとしていた当時の状況が伺える報告である。
18年末に全国一斉に行われた外国人に関する調査の結果は、19年3月に報告されている。これによると、白系ロシア人の総数は約1400名、困窮者は全国で100世帯、180名で、これは全体の2割にあたっていた。また、このうち既に何らかの扶助、救助を実際に受けるかもしくはそれが必要とされる世帯が16であった。困窮の主な理由は、経済統制に伴う「企業整備令」により転業・廃業を余儀なくされたため、あるいは、原材料の入手難による営業不振であった。困窮者の比率が高く44パーセントにも達していたのは東京であった。
さて、これら困窮者に対して、警視庁が転業の斡旋を行なったという事実は興味深い。19年3月の月報からその一例を挙げると、イワン・シシキンを始めとする洋服行商18名、金物化粧品行商6名、その他合計30名の白系ロシア人が、大森区の東西機器製作所に就職斡旋され、一日4円50銭から5円の賃金で働くことになった。これまでの外事警察の原動から推測するに、このような措置は人道的見地からというより、金銭を餌に白系ロシア人が諜報活動に引き入れられることを憂慮したのであろう。
(7) 外諜容疑検挙事件:1943(昭和18)年4月、6月、1944(昭和19)年5月
この一方で、外事警察は引き続きスパイ容疑による白系ロシア人の検挙を続ける。18年4月には北海道と樺太を舞台にした外謀事件にまつわり、総勢7名が一斉検挙された。また、18年6月の報告には、この事件の余波により樺太在住のロシア人が「強制キャンプ」に収容される旨の記載もある。19年5月の月報には、北海道小樽市にてロシア語教師スミルニツキーが検挙されたと報じられている。容疑は造言蜚語、無線電信法違反だが、スミルニツキーの発言内容は他愛のないものにしか思われず、当時の外事警察の過剰反応ぶりが伺われる事件である。
(8)居住地区の限定:1943(昭和18)年12月、1944(昭和19)年8月
さらに、18年9月には「外国人の旅行等に関する臨時措置令」の一部改正が行なわれ、軍機保護の見地から、東京湾要塞地帯内の外国人が居住していては問題がある地域(甲区域−横浜の高台部と臨海地区)から外国人全員を退去させることが決定した。これにより508世帯1227名の外国人が移転を余儀なくされた。移転先は京浜地区だけでは処理できず、長野県軽井沢周辺ほか、全国各地に及んだ。これら移転者の氏名は18年12月と19年8月の月報に掲載されたが、このうち、白系ロシア人は27世帯70名にのぼった。(9)ソ連国籍復帰に亡命露人協会:1944(昭和19)年6月
日本を取り巻く戦況が不利になるにつれ、白系ロシア人の中に、ソ連国籍への復帰を望む者も出始めた。19年6月の月報によれば、日本在住亡命露人協会がこうした動きを警戒し、会長ペトロフの名前で日本各地のロシア人に檄文が配布された。その内容は「共産主義は秩序の敵であり、これに屈してはならない。また、自分たちは日本から多くの恩を受けており、自分たちの幸福は日本の幸福に一致する」というものであった。この時、ソ連国籍取得手続を行ったミチュリン等は同協会から除名されたという。おわりに
最初に触れたとおり、本稿の目的は『外事月報』と『外事警察概況』という内務省警保局刊行物に見られる白系ロシア人の事例を紹介することにあり、それらの総括はここでの任ではない。ただ、祖国を捨てた白系ロシア人は「中立国人」であったにもかかわらず、日本の外事警察からは他の外国人同様、取り締まりの対象として扱われることが多かったという事実を最後に強調しておきたい。日本への忠誠心を示すために、ある者は国防献金を行い、ある者は息子を志願兵として戦場に送り出した。彼らはそれぞれの仕方で、戦時下の困難を生き延びようとしたように見受けられる。ここに、開戦時に「大東亜戦争に関する在留外国人の意向」として、他の外国人とともに報告された神戸のモロゾフの発言がある(10)。日米開戦を賞賛し、当局に同調したその物言いが、彼の本心を伝えるものであるのか否か、判断はむずかしい。しかし、国籍を持たず異郷に暮らす当時の白系ロシア人にとって、こうした発言は穏当なものだったと思われる。
憂鬱な経済戦だとか神経戦が一気に吹飛ばされて愈々武力戦が展開される様になったことは長い間の梅雨が済んでカラットした日本晴を迎えたような気持ちです。我々は従来屡々シンガポールの不落、真珠湾の豪勢を 英米人から聞かされ胸がクシャクシャして居たのですが処が昨日のニュースで之等の基地が日本の精鋭な海軍力の前に頭を下げ初めたことを知ったのですから吾々の喜も大変です。...註 (1)『外事月報』昭和16年12月
(2)本稿では以下、亡命ロシア人、旧ロシア人等の呼称を、「白系ロシア人」と統一して表記する。
(3)とはいえ、これまで筆者が行った聞き取り調査では、ある程度の成果が得られている。ここに簡単に報告しておく。長崎の状況はL.C.シュウエツさんによってかなり詳細に知られている(拙論「リュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツさんに聞く」『異郷に生きるII』成文社2003年、参照)。(4)『(復刻版)外事月報』全11巻、不二出版、荻野富士夫解説、1994年。
また、函館の状況は吉田和子さん(ロシア料理店「モーリエ」店主)や相馬久子さん(元函館市長登坂良作氏の長女)らからお話を聞くことができた。例えば、A.デンビー夫妻が函館から上海へ避難する際、同家に伝わる肖像画が吉田さんの祖母、入間川エフドキアさんに託されたが、彼女はこれを土中深くに埋めて守りとおしたという。また、アンナ・バトーリナ(A.デンビーの妻の妹)が拘禁され市内の監獄にあったとき、食事にタコが出され、タコを食べる習慣がなかった彼女は、入間川エフドキアさんに「タイヤのチューブを食べさせられた」と語ったという。
その一方で、ハルビン学院一期生で後に日魯漁業株式会社の通訳として活躍した徳武良信氏とそのロシア人妻ナターリア(彼らの次女信子さんが相馬さんと同級生)は、当時別荘地として知られた湯川の自宅地下にバターやチーズなどを豊富に隠し持ち、これにより食糧に不自由しなかったという。
(5)『(復刻版)外事警察概況』全8巻、石堂清倫解説、1987年。
(6)また、萩野氏の『北の特高警察』(荻野富士夫著、新日本出版社、1991年)および「『外事月報』解説」(前掲書第1巻)も、外事警察の沿革や業務内容を知るうえで大いに参考にさせていただいた。
(7)当件に関わり、書類送致の後起訴・実刑判決を受けたヴィノクーロフについては、小山内道子「『トナカイ王』ヴィノクーロフの生涯」『異郷に生きる』成文社2001年、参照。
(8)『外事月報』昭和16年12月
(9)外事月報が「月報」であるのに対して、外事警察概況は「年報」である。
(10)『外事月報』昭和16年12月